沿革

 

 北里柴三郎はロベルト・コッホのもとで6年間細菌学を学び、他国の招きを断って明治25年(1892年)帰国した。当時、公衆衛生が普及せず伝染病が猛威をふるっていた日本に、まず伝染病研究機関の設立をはかったが、時の政府からほとんど無視され、彼は己の学術を生かす所を得なかった。慶應義塾の開設者である福沢諭吉は医学に強い関心を有しており、優れた学者を見殺しにすることはできないと、芝公園の一隅に研究所を設立し、北里がそこで自由に研究を行えるよう計らった。同研究所は明治32年(1899年)に内閣省管轄の官立伝染病研究所となり、明治38年(1905年)には芝区白金台町に新築移転し、優秀な研究所となっていった。しかし、大正3年(1914)、大隈内閣は文政統一行政整理の名のもとに、突然、伝染病研究所を内務省より文部省に移管し、おって東京帝国大学に属せしむることを決定した。北里は所長の座を辞任し、研究所の全職員も北里に殉じて総辞職する事態となった。北里は自費を投じて北里研究所を開設し、成長させた。

 大正6年(1917年)、慶應義塾は創立60周年を迎えることになった。これを記念して、大学部に新分科を設けるべしという声が起こり、評議員の間にその具体策が真剣に議せられてきた。北里が采配を振れば天下の名医が集まり立派な医科ができるという声が高く、時の塾長鎌田栄吉が北里にこの由を伝えた。北里は福沢諭吉の学恩に報いることができるので大いに賛同し、慶應義塾に医学部が誕生する運びとなった。大正5年8月にこの趣旨を発表し、同年12月27日に医学部設立の認可を得た。大正6年1月予科1年生を募集し、同年4月16日開校するに至った。

 医学部長に北里柴三郎が決定されると同時に、北里研究所の草間滋が病理学教授に就任し、病理学教室の設立に当たった。更に大正8年(1919年)6月には、熊本医学専門学校教授川上漸が当校教授として迎えられて、教室は開設された。北里が開校式で述べた「我が新しき医科大学は多年医界の宿弊たる各科の分立を防ぎ、基礎医学と臨床医学の懸隔を努めて接近せしめ、融合して一家族の如く」という「建学の理念」を継承し、基礎医学と臨床医学の架け橋として機能する病理学教室を目指すこととなった。これは、今日でも実験病理学と診断病理学の分野を分離することなく活動する礎となっている。

 昭和31年(1956年)、ロックフェラー財団の寄付をもとに東校舎の再建計画が実施される時期に、米国デューク大学病理学教室フォーバス教授が訪問教授として当教室に3ヶ月滞在した。この間における、同教授の提唱する教育方法に深い感銘を受けたスタッフは、昭和32年(1957年)9月以来、系統講義の比率を大幅に減じて、実習を中心とした「学生自身が病理学を自ら学びとる」という精神を基盤にした教育法を行ってきた。現在でも、特に肉眼・組織実習には力を入れており、学生実習は多数の症例を経験することができる。また、病理学総論・各論の講義の他に、CPC(Clinico-Pathological Conference)を全国に先がけて開始した。1つの症例について、臨床各科の医師と病理の医師が臨床経過の説明、自由討議を行った後、解剖結果を提示するというものであり、現在では全国の大学・病院で行われている。

 現在は、病理学教室と病理診断部で密な協力・交流を行い、また他科との良好な関係を構築し、教室全体で病理学に取り組んでいる。基礎医学と臨床医学の垣根をなくすという教室開設当時からの理念は継続しつつ、時代に合わせて柔軟な変化を遂げてきている。